哲学をするひとはファッションについて、まじめに語ろうとしないのか、経済の浪費サイクルとでもいうのか、みにくいローテーションと思っているのか、エコに反する行為といいたいのか、服を次から次へと消費し続けることがばかばかしいというふうに映っているのかもしれません。
けれど、ファッションをまじめにとりあげて哲学する先生もいて、衣服と生活が衣食住という面以上に、本能というか、ひとの常というか、避けて通れない道なんだという気がするんです。
服を着て、髪を整えて、ツメも切ったり伸ばしたり、単に寒い暑いの理由以上のものがあると思うんです。その街を歩くとき、その仕事にいくときの格好は、そこの職場なり学校なり所属するカテゴリー内の一員であって、そこに潜み多数の中の一匹の羊で過ごすこともあれば、プライベートではどんな格好をしようと自由なわけで、一匹オオカミでもライオンでもいいわけです。どんなに自己主張しようが、どうしようが。ファッションというと何かそのシーズンの流行を雑誌が仕掛けたとおり、セレブとかファッションリーダーの真似という受け取り方をしてしまいがちですが、どんなひとでも巻き込まれているのがファッションだと思うんです。
昨日と違う服に着替える、それは単に洗濯のためじゃなくて、今日の自分になるためなんです。
どんな皮を持つ自己でいようかと選択して衣服を着用していて、それは意識的な選択なんだと。たまには自分じゃないみたいないつもの日常から逸脱するための皮をまとってもいいわけだし、集団と同じ皮フを持った自分になってもいいということ。結婚指輪も。


